活動
現在30名ほどの観光ボランティアガイドが、みなさまに枚方の観光スポットなどを楽しくお伝えするため、活動を続けています。
枚方は宿場町や舟運のほか、古代のまち、寺内町、軍需産業のまち、といろんな側面をもつ歴史豊なまちです。梅や桜、菊や紅葉、コスモスなど、自然も豊かです。枚方の文化や歴史、自然を、お勧めスポットから穴場まで、私たちガイドがご案内します。
平成10年に枚方文化観光協会が設立され、観光ボランティアガイドの会は平成13年に鍵屋資料館を拠点に活動を開始しました。
現在では、市内の個人のお客様から他府県からの団体のお客様まで、お客様のニーズに合わせて市内各地をご案内しております。
枚方観光ボランティアガイドコーナーは京阪電車枚方市駅東口改札前の枚方市駅市民サービスセンター内にあります。皆さまのお越しをお待ちしております。営業時間は午前10時から午後3時までで、木曜日と日曜日、年末年始はお休みです。
案内所にご来所の際やガイド実施の際はマスク着用をお願いしております。
ご理解、ご協力の程、宜しくお願い致します。
観光協会ええとこどりウォーク
2020年2月
光善寺境内
出口御坊光善寺は、 文明7(1457)年に御厨石見入道光善が草庵を建てて蓮如上人をお迎えした寺です。当時この地にあった200m四方を超える大きな池を埋め立てて諸堂が建立されたことから山号が淵埋山(えんまいざん)と名づけられました。
光善寺境内 脇門と太鼓楼
脇門は薬医門です。2018年の地震や台風で大きな被害を受けましたが修復されました。
太鼓楼は御坊格寺院としての格式の高さを示すもので、花頭窓や木連格子が江戸時代の寛政期頃の様式を伝えています。
光善寺境内
右にあるのは蓮如上人が虫歯が抜けたときに詠んだといわれている句の碑「蓮如上人御落歯の懐紙碑」です。傍らには、光善寺を建てるために淀川の淵を埋め立てるときに走谷堂山古墳の土砂とともに運ばれてきた石棺があります。
サイカチの木
境内北端にあるこのサイカチの木は昭和50(1975)年に大阪府指定文化財(天然記念物)に指定されました。マメ科の落葉高木で、幹・枝に多数の棘があり、葉は複葉、淡い黄色の小さな花が咲き、長さ30cm余りの豆果は、サポニンを含むため洗濯用や、生薬として去痰や利尿剤にも利用されました。
光善寺庭園(石川丈山作)
サイカチの木には龍女伝説があります。龍女が蓮如上人の説法を聴いてサイカチの木を伝って天に昇るときに遺した金色の巨鱗三枚を上人が寺の池の傍らに埋めました。そのため、光善寺の庭園の池は龍女の池、その脇の五輪塔は蛇塔といわれているそうです。
蓮如上人の腰掛石
出口ではこの「腰掛け石」の形にちなんで「出口だんご」が作られ、この地の名物となっています。昔はどこの門徒の家庭でも作っていたそうです。
右の石碑に刻まれている御田地(おんでんち)とは、お上から預かった田畑のことです。
蹉跎神社(蹉跎天満宮) 参道 一の鳥居
鳥居は、神域と人間が住む俗界を区画する(結界)で、大別すると、シンプルで直線・直角的で笠木・貫・柱が円形で貫が突き出ていないものが多い神明系(伊勢神宮)と、装飾的・流線的で貫が突き出ているものが多い明神系があります。
蹉跎神社(蹉跎天満宮) 絵馬堂
1717(享保2)年に建立された二の鳥居から続く石段を上ると途中に絵馬堂があり、手動ポンプも展示されています。手動ポンプは明治、大正と使われ、1934(昭和9)年まで現役で活躍していたそうです。
蹉跎神社(蹉跎天満宮)境内
菅原道真が大宰府へ左遷され、その後を娘の苅屋姫が追いかけ小高い山に登ってあたりを見渡しましたが間に合わず、足摺り(蹉跎)して嘆いたことから、その山を「蹉跎山」と呼ぶようになったそうです。蹉跎神社(蹉跎天満宮)は、大宰府でその話を聴いた道真が作った木像を天歴5(951)年、蹉跎山に社殿を造営して祀り、近隣の村の産土神としたのが始まりとのことです。郷社で、現在の社殿は明治22年に改築されました。
蹉跎神社(蹉跎天満宮)境内
右の建物は修復された神楽堂です。2018年の台風で大木が屋根に倒れかかり大きな被害を受けました。神牛舎など他の建物も損壊しました。
蹉跎神社(蹉跎天満宮)境内の梅
「東風(こち)吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」菅原道真
(春になって)東の風が吹いたならば、その香りを(私のもとまで)送っておくれ、梅の花よ。主人がいないからといって、(咲く)春を忘れてくれるなよ。
大鏡より
蹉跎神社(蹉跎天満宮)の御旅所
御旅所とは、神社の祭礼で祭神が巡幸するときに仮に神輿を鎮座しておく場所のことですが、こ蹉跎神社の遥拝所にもなっています。昔は右上の丸いところから蹉跎神社を望むことができたそうです。
牧野公園から車塚公園
2020年1月
この道標には「左前島街道」と刻まれています。前島街道とは、高槻の上宮天満宮前で西国街道から分岐して淀川を渡り、ここ牧野で京街道と合流する街道でした。
牧野公園はかつては片埜神社の社地の一部でした。阿弖流為の首塚と称するものが1980年代に牧野地区の女性の手によってつくられました。
牧野の桜は、昭和59年に制定された枚方八景のひとつです。春には桜が咲き揃います。
牧野公園は、戦後、片埜神社の広い神域の一部を市が譲り受けて造成されました。
慶長7(1602)年、豊臣秀頼によってこの片埜神社の本殿、拝殿などの社殿が大造営されました。そのうち本殿と南門が現存していて、蟇股が桃山時代の華麗な様式を残している
本殿は重要文化財です。
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社伝によれば、垂仁天皇の世に野見宿祢が当麻蹴速との相撲に勝って当地を拝領し、出雲の神の素戔嗚尊を祀り、後に野見宿祢の後裔である菅原道真を天神として祀るようになりました。1月9、10、11日にはえびす祭が催されました。
片埜神社は戦国時代の戦乱で荒廃しましたが、豊臣秀吉によって復興され、大坂城の鬼門の方角にあることから鬼門鎮護の社とされ、現在でも方除・厄除の神として信仰されています。鬼は片埜神社の象徴・守り神とされています。
約5ヘクタールもの広さを持つ緑豊かなこの車塚公園には広々とした芝生スペースをはじめ、最新の防災設備が揃っています。このマンホールを開いて囲いを取り付けると、合計52基の簡易トイレが確保できます。
車塚公園の駐車場に隣接したところにあるこのベンチを取り外すと炊き出し用カマドになり、温かい食事や飲み物を作ることができます。
車塚公園はいこいや自然の安らぎを感じる場として、また、災害時には防災公園として、広場を避難場所として使えるように、最新の設備と機能を備えています。